『東大寺との“確執”』
大晦日の「ゆく年くる年」は、9月頃から企画検討を始める。
1979年“ゆく年”の、除夜の鐘中継を担当することになり、
大仏殿昭和大修理、竣工直前の「東大寺」でいこうと企画。
寺側と交渉して一旦、中継放送の了解を取り付ける。
これが、わがプロデューサー時代最大の事件の発端。
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まず最初は、大河ドラマ「草燃える」(1978年)絡みの騒動。
ドラマ班が、タイトルバック用に南大門の仁王像アップを撮影。
その際、門脇の土産物売りのお婆さんに商売を休んで貰った。
この時の対応に不満を持ったお婆さんが、寺務所に訴えた。
一年前の出来事だったのだが、何故か蒸返しての再苦情。
即刻、東京ドラマ部長に来阪を促し、謝罪釈明をしてもらう。
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しかし、これは単なる手始めで、以後難癖クレームの速射砲。
まず大仏殿天井裏で、建造以来の落書が多数発見される。
そんな中に、「“ゆく年くる年”記念」と署名入りの落書があった。
これには大慌てで、7年前に中継した時の記録を徹底調査。
当時雇用したアルバイト学生の仕業と判明して謝罪。
その後も、一々書くことが不能な程、クレームの絨毯爆撃。
週一ペースで呼び出され、過去に遡ってネッチリと難題。
さすがに、これは異常だと気付き、原因を調査。
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理由は、簡単に判った。
東大寺は、大仏殿修理という巨大事業に取り組んでいた。
経済界・企業・資産家・篤志家を行脚して、寄進集め。
その最高責任者が、我が確執の相手“守屋”(仮?)執事長だった。
彼は、大修理発心以来、寝食を忘れて力を尽くし続けていた。
そんな時、ノコノコと、小生が出向き、
“ゆく年くる年”のテレビ中継を申し込む。
東大寺の執行機関である、5人の執事会が、何気なく了承。
その直後、東大寺側が、“あること”に気がついた。
境内に、寄進奉賛者芳名額の大きな木柵が、掲示されている。
A新聞社3千万円、○△放送局2千万円、某大企業5千万円…。
どこをどう探しても、我社(NHK)の名前なんか、有る訳が無い。
…難癖イジメの原因はこれか!
理由が判れば、やりようが無い訳ではない。
徹底的に、粘ることだ。
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謝罪に赴いた“執事長”住持の塔頭、「知足院」の玄関前、
上司と二人、猛烈に雪が降りしきる中、一時間待たされる。
『言うなれば、これは“カノッサの屈辱”だな。』
さすが上司、凍える中で“ローマ教皇の皇帝破門”の逸話か。
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数日後、『東大寺は、お前がどう頑張っても無理だと思う。
別の者に、平等院を下見させた。企画変更したらどうだ。』
…冗談ではない!それは御免こうむる。
『いま、小生が悪戦苦闘していることは、職場全員が知っている。
しかし十年後には、“東大寺企画を途中で投げ出した奴が居た”
という話になってるでしょう。ここで止める訳にはいきません!』
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その後も、寺側は大仏殿正面に大型クレーンを置かせ画面妨害。
これは、工事の現場監督が、そっと近付いてきて、
「大丈夫です。本番5分前に脇に移動し、後で元に戻します。」
いまでも、あの時の監督の好意は何だったろうと不思議。
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最大のヤマは、“回廊中門事件”。
新年は、午前零時に中門開放、特別無料公開となる。
その直前迄、中門内にメインカメラを置き、ベストショットを狙う。
この年採用の“新人”に、開門までの中門死守の役割をふった。
そんな所へ、若干お神酒の入った“執事長”登場。
寒い中、開門を待ちわびる酔客の「はよ開けんかい!」の声に、
「…判りました。わたしが空けさせます!」と、仰天の慣行破り。
その時“新人”、「やめてください!」と叫んで、
モヤシのような体で、大柄な“執事長”に抱きついた。
その状況は「大木に蝉」だった、というのは後から受けた報告。
ここで奇跡が起きた。
最前列で、「はよ開けろ!」と叫んでいた酔いも入った客達が、
「あのモヤシみたいな奴、可哀想だから、待ってやろうや。」と、
スクラムを組んで、後ろに犇めく大勢の客をブロックした、という。
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「ゆく年くる年」も無事終わり、新年を迎え、松が明けた後も、
無実のクレームでの、呼び出しは続いた。
この確執の期間、ずっと“血尿”が続いていた。
雪の軽井沢、銃撃戦の下で奮闘した「浅間山荘事件」や、
市ヶ谷台、頭真っ白で茫然としていた「三島由紀夫事件」でも、
血のションベンは、経験しなかった。
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後日譚①:
事件後、ハマリ込んでいた麻雀の席で、
東大寺は鬼門だ。ゲンが悪いから、「東」は全部叩っ切る!
…役萬を、振り込んだ。―“小四喜”。
雀友とは、血も涙も無い仲間のことだ、と知った。
後日譚②:
“執事長”さんは、その後「華厳宗管長」。
「修二会」最多参籠記録を持つ、東大寺長老である。
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